お茶の声が聴こえるか

拝啓、モラトリアムの君へ

まだもう少し子どもだった頃、仕事なんて絶対にしたくないと思ってた。

 

毎日8時間も働いて、家事もして、そんなことしてたら何もできないままに一年が終わり、一生が終わってしまうような気がしていた。お賃金に関しても、そう。手取りで20万円そこそこのお金、家賃と少しの食費でほとんど吹き飛んでしまって、生きながらえる為だけの仕事、仕事をして、あとは息をするだけ…そんな風に思ってた。

 

今はどうか、っていうと。毎日8時間以上働いて、家事はたまに、そんなことをしてたらまた朝日が登る。お金も、特に沢山はない。宵越しの銭くらいは残るけど、月は越せない。

 

けど、思ってたほど悪い生活じゃない。

 

毎日のご飯は美味しいし、ちらと街を散歩するだけでも新しい発見に溢れている。来週はまた別の珈琲豆にしてみようか。家でやる焼肉って、最高?!ケーキもお家で作ると美味しいね。

 

食べてばかりかもしれない。でも、食べる生活って、たのしい。

 

もう、自転車にもあまり乗らなくなってしまった。もう、図画工作も年に一度もやっていない。もう、音楽も聴く以外さっぱりだ。

 

それでも、生活は楽しい。

 

遠く遠くまでペダルを回すことはなくなったけれど、ゆっくりと遠く遠くまで見渡すようになった。芸術的な試みはできてないけど、研ぎ上げた包丁の煌めきは愛らしいし役に立つ。楽器なんてやらなくたって、流れる音に肩を揺らせばそれがまた音楽だと気づいた。

 

時間をかけたなら、何か大きく変わらないと意味がないと思っていたでしょう。どうせやるなら、本気を出さないのはやらない方がマシって思っていたでしょう。

 

その真善美みたいなものは、可愛らしくて大事なものだけれど、そんなに肩肘を張らなくても大丈夫。大きく変わって見えなくとも、時間をかけたなら何かが違っている。本気を出さなくても、明日またやれたなら何もしないよりずっといい。

 

もう僕は1年に5センチも伸びないし、毎年なんらかの賞をもらうとかも、難しい。身長なんて5mmも伸びたら驚いてしまうし、大人は他のおとなに賞を渡したり、あんまりしないらしい。もう少し子どもだった頃みたいに、自分自身が大きく変化しないからこそ、相対的に小さな変化も大きく見えるようになったのかもしれない。時速100kmで走る君から見れば僕は止まって見えるかもしれない。けれど、時速10kmで走る僕からは、止まっているかのような世界が目まぐるしく1400kmで動いていることを観測できた。

 

 

穏やかになっていく老い先に案ずることはない。君がつまらないヤツになっても、世界が君を楽しませてくれる。君があまりに遅くなっても、置いていかれるなんてことはない。世界は一緒に回ってくれるから。

人間は沢山の穴を纏っている

大量にかけられた洋服を、下から覗き込んでみる。同じ数だけの穴がある。いや、四肢と体幹を通す穴で、かかっている洋服の3倍は穴がある。

人間は、沢山の穴を纏って生きている。

その穴は元々からあった穴ではない。人が生きるために生み出された、あるいは穿たれた穴。古代の人類は土や岩に穴を掘って、住居とした。人は自分以外の何かに穴を空けることで快適に暮らしている。

 

こんな見方もできる。

人間は大気中の空気にも、自分の身体の形をした穴を作って生きている。例えば、今この瞬間に僕が何らかの理由で存在ごと消滅したとすれば、僕がいたその空間はカラッポになって穴になる。真空というヤツだ。でも、大気からしたら何が入ってようとも、彼以外の何者かが彼に穴を開けて、中を埋めているようなもの。

閑話休題 

要するに、人間は他の何かに穴を空けなければ生きてはいけない。しかも、多くの人々はその空けた穴について自慢げに見せびらかしている。その穴を纏うことで着飾っている。きっと、そのことについて思い悩む必要はないけれど、自分が穴を空けてしまった人たちのことを思い出すことは、忘れてはいけない…ような気がする。

そして、同時に。

空けてしまった穴があるなら、自らでその空けた穴を埋めることも大事なことだと思うのだ。そうでなければ、せっかく生み出されたお洋服という穴も浮かばれないことだろう。生きる以上、穴を空けるのは避け難い。そうであれば、どれだけの穴を自分自身の生命を使って埋め合わせていくのかが、人生かもしれない。

近代の人類は掘った穴に、死体を埋めることで新たな生を与えようとした。人生の始まりで空けた穴を、人生の終わりでは埋めることになる。そうすることで、また新たな穴を空けることができるのだから。

 

あけましておめでとうございます。

不倫と青い春

不倫している大人を見ると、不意に電車でイチャつく横顔に高校生を思い浮かべる。

 

 

実に嬉しそうで、幸せそうで、鼻の先が伸びた顔。必要以上にタッチが多くて、マスク越しにキスをしていて、視線と視線がまるで愛撫なあの2人。

 

 

不倫してる。

 

 

見ればわかる。

守るものの無い、甘えた顔をしている。失えないナニカを抱えた猛者とは異なる、焦点の定まらないほどけたジャガイモのような眼をしている。

想い人との情事を、人様に曝け出せるそのガードの緩さはまともな相手のいるそれとは明からさまに違っている。本質的には、今その乳繰り合う女か、男か、その相手が自分の運命の相手ではないことを悟っている。明後日には素知らぬ顔で歩いている未来を思い描いている。許される恋ではないと知っている。どうせ上手くいかないだろう、と信じている。他人に認められることも、親に知らせることも、自分から許されることもないと知っている。私たちには明日がないと、本気で信じている。

 

 

その儚さを貪るように、赤の他人である不倫相手の唇を舐め回している。

 

 

 

寂しさの現れなのだと思う。

自分が本気で好きだと感じるその相手が、誰からも、自分からでさえ認められることなく、未来がないと確信されている。その現実があまりにも辛いのだとわかる。だから、朝日が登るその前に、せめて逃さないように抱きしめて、忘れないように見つめあっているのだと思う。

 

とても悲しいことだ。

今日が雨でよかった。

とても嫌なことがあった日にくらい、雨が降っていたらいいと思う。ああ、ツいてなかったな、泣きっ面にハチだな、って思えたらいいなと思う。そうでなきゃ、きっと誰のせいにもできないままに涙も流せやしないんだ。

 

昔から雨が大嫌いだった。

 

雨の日は勝手に学校を休んだし、傘を持ち歩かないポリシー(なんの得があるのか)もあった。雨の日には身体がなんだか重たいし、頭もちっとも働かない。急に地球の重力が10倍になったから空から雨も降ってきよったんだわな。

嫌なことがあった日の記憶は、いつも雨と共にある。

3年間のすべてをかけた部活動で、最後の夏に初戦敗退したあの日。就職活動で決定的に失敗したあの日。約束に間に合わなくて、全てが手遅れになったあの日とあの日とあの日。別れ話の後はいつも雨が降っていた。

 

でも、その雨が自分を救ってくれてたのだとも今は感じている。

 

同時に、この雨がどこかで誰かを救っているのだとも気がついた。珈琲と本越しに眺める窓際の雨が、どこか優しく感ぜられるのもきっとそういうことだ。調子良く目標へと突き進む人には厄介者の雨も、これ以上は一歩だって進めない怪我人には敗北を癒す薬になる。僕らが雨を愛してしまう理由がきっとそこにある。

 

土砂降りに俯いてトボトボと歩く少年がいた。傘を差してあげたかったけれど、そうしなかった。でも、それでよかったのかもしれない。必要な時に、必要な人から傘を差してもらえるよう祈る。

自家焙煎と加齢

僕は珈琲が大好き

味がソムリエのようによくわかるとか、淹れるのがとっても上手とか、豆の種類に詳しいとか、そういことは特にない。

けど、珈琲豆をミルの高速で回る刃で粉にする、あの何か始まりそうな予感、フィルターの角を折ってから広がるあの一手間、そのフィルターに詰めた珈琲を水平に慣らして中央を窪ませるちょっとした繊細や、蒸らしのためにほんの少しだけ振りかけた湯気にまだか今かと待ちかねる、あの時間。あの時間が僕は好きだ。毎日1L近く珈琲を消費している。日本では1日あたり1トンちょっと飲まれている珈琲、僕はそのうちの0.1%。

 

そんな珈琲好きが高じて、遂に自家焙煎に手を出してしまった。珈琲は生まれた時からあの艶々とした黒々な宝石ではなくて、元々は乳白色に濁った石のような見た目をしている。人が産まれたころから髪や髭を蓄えてがっしりとはしていないように、珈琲豆もまた赤ん坊の頃がある。

 

これを温めて焦げないように忙しなく鍋を振りながらじっくりと炎で炙ると見慣れたあの黒曜石のような黒に染まっていく。焙煎するうちにパチパチという音を合図に"1ハゼ"が始まって、より濃い色へ、そしておしまいの合図"2ハゼ"と共に馴染みのある黒へと変わっていった。徐々に酸味が消えて、甘みと芳醇な苦味を蓄えていく、シティローストだ。

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今回はコロンビア産の豆を使った。一番有名なコロンビア産の豆は、例えばエメラルドマウンテン。こいつはコロンビアで採れるブランド豆で、豊かな甘みと果実味、柔らかな苦味が特徴的な、いわゆる美味しい珈琲豆なのだけど、とにかく高級。500gで3000円とかする。それが生豆から自分で作ると、1kg2000円なんかで買えるのだから焙煎という工程の価値がよくわかる。

 

自分で焙煎した珈琲は偶然にもとても美味しく仕上がった。コロンビア産特有の甘くて、柔らかな酸味と苦味、それにフルーツの香り。味が少しずつ変わっていく様子も面白くて、これはやりがいがあるぞ。しかも、焙煎してから3日経ったくらいが一般的に「煎りたて」と言われるゴールデンタイムらしくて、物事が落ち着くのには若干のラグがあるものだなあと感じる。

 

 

さて、実は人間にも"ハゼ"がある。

どうやら、歳を重ねていくうちに人間は急速に老化が進む年齢があることがわかった。それは34歳、60歳、78歳なのだけれど、この年齢を境に体内のタンパク質組成がガラッと変わるらしい。つまり、別の存在へと置き換わるということ。

俗に、30歳(みそじ)はある一つのタームと言われていて、現代ではこの年齢から一人前と見なされるところがあるけれど、肉体的な話をすれば34歳から人間の"味"が出てくるということになる。

そして、60歳で人間の味は完成する。

78歳になると、完熟な状態……人生のゴールが見えてくる。焙煎と考えてみれば、この年齢まで焦がさず、事故に遭わず大病もせず走り抜けることで到達できる境地。25歳になる僕は、まず34歳までよく動いて焦がされずに味を深めていかなければならない。甘くてまろやかな34歳。

34歳までの僕は、酸っぱすぎて飲めたもんじゃないんだから。

紙製のトランプがほしい。

紙製のトランプがほしい。

子供の頃、僕は親から与えられた紙製のトランプしか持っていなかった。使い古されたそれはカドの擦り切れ具合で一目見ればダイヤの8だとわかってしまうゲームカードとしては欠陥のあるカード。色も形も忘れてしまった、いかにも古臭いそのトランプのジョーカーが可愛くなくて、ババくさいなあと思いながら渋々使っていたことだけ覚えている。

それにショットガンシャッフルもできなくて、一人遊びをするにも向いていないおもちゃだった。プラスチックトランプを持ってる友達はいつも沢山の人に囲まれていた。"船長"とか"番長"とか、そういうニュアンスの名をご両親からは与えられた彼は、丸々としていて、豊かな体型で強引さのある性格…確かにガキ大将のような様相をしていた。親孝行ものだなあと思う。何回やっても彼に遊戯王トレーディングカードゲームで勝つことはできなかったっけ。"負けたらカードを奪われる"という原作漫画のルールを適用したギャンブルもあったけれど、僕は何があっても彼とだけはそのルールで対戦しなかった。

 

働き始め、憧れだったプラスチックトランプを手に入れた。別にお金を沢山に得たからじゃない。プラスチックトランプのことをいつまでも引きずっていたワケでもない、ただ100円均一で目に入ってきて、気が大きくなったのだと思う。ああ、これで夢に見たショットガンシャッフルもできるし、ダイヤの8がどこにあるのかもわからない、完璧だと思った。

 

けれど、それは間違いだった。

プラスチックのスベスベとした硬い殻は僕の手も、仲間であるトランプたちをも拒んだ。丁寧に切ったそれらは混ざり合うこともなく、バラバラと手から零れ落ちていった。

ショットガンシャッフルも、やらなかった。もう僕はトランプで1人遊びに耽るほどには元気でもないし、敢えてそれを見て喜ぶような友達もいなかった。むしろトランプは、友達と遊ぶために必要とされた。柔らかくて、適度に滑りにくくて、手の中に収まりのいいザラザラとしたトランプが必要だった。時には角の擦り切れを見て、イカサマをして、どつきあいが起きるような、仲の良いトランプが必要だった。

 

僕は、遂にプラスチックトランプを手に入れることが出来なかったのだ。もう僕にはダイヤの8がどこにあるのかわからない。擦り切れたカードの傷跡は僕らの足跡だった。この手で描いた宝の地図を、僕は捨ててしまった。なんてことだ。後悔しても、遅い。

 

いつまでも変わらないことが素晴らしいだなんて、とんだマヌケだ。そんなのは成長を忘れて蛹のまま化石になったのと同じじゃないか。傷ついても、くたびれても、色褪せても、それが生きているということ。擦り切れて落ちた角を目印にダイヤの8を探した。ぶつかり合って、形が変わって、そうして僕らはそれぞれを自分のものにした。お互いを飼いならした。愛し合うって、そういうことだと思う。

紙製のトランプがほしい。

 

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人間のスープ

クリスマスにエビのスープを作った。

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弱火でクタクタと、ピュアオイルとえびの殻を味噌付きで炒めた。焦げる寸前になったら常備していたアホエンオイルとニンニクのアッシェ、ソフリット、水、魚介出汁を少々と塩胡椒で味を整えた。

 

エビは不思議。

なんていっても、あの海の暗さを物語る灰色の身体が火を通した途端にさも縁起の良さそうな赤色へと変わるのがとっても不思議。トマトなんて一切入れていない、100%エビの赤。

 

生きている間のエビは、赤色を出さない。背わたを取ってもタールのような黒だし、血液は青色。赤と青なんてまるで反対のように見える色。

でも、実はエビは生きている間も赤い。エビの青色は アスタキサンチン という成分でできていて、タンパク質と一緒に暮らしていると顔色が青白くなるらしい。姑と暮らす嫁みたいだね。ところが、火を加えることでタンパク質が天に昇ると、勢いよくなって顔を真っ赤にするらしい。鬼ごっこは続くよね。

 

ということで、目に見える色ばかりが"本当の色"ではないらしいことがわかった。私たちの身体には赤い血液が流れているらしいけれど、本当の色は何色なんだろう。死んでしまって、大きな窯の中で焼かれた時にようやくわかるかもしれない。そういう意味でも、お葬式やそれに纏わるエトセトラは僕たちの通信簿みたいなものなのかもしれない。

 

よく炒めて、思い出と一緒に煮込んでもらって、おいしいスープになれるように今のうちから沢山の海を越えて泳いで行かなきゃな。