お茶の声が聴こえるか

行きつけの美容院と大人

行きつけの美容院ができた。

少し大人になれた気がした。

 

髪を切るというのは私にとって一大事である。歯を磨くだとか顔を洗うだとかの様な習慣とは違って、ある種の儀式的な感覚。もちろん、ただ伸び散らかして鬱陶しいから整える場合もあるけれど、多くの場合に散髪は転換のタイミングと重なることが多い。

 

例えば、初めて誰かと会う時。

例えば、誰かと過ごす大切な時。

例えば、誰かとサヨナラをする時。

 

髪を切るのはいつだって特別なんだ。

 

にも関わらず私にはこれまで「行きつけの美容院」というものがなかった。友人や恋人が美容師さんの名前を出すたびに、自分の未熟さを感じてしまう。特別なひと時を、好きでもなくて感慨もない有象無象に委ねてしまうことにも、数多の選択肢の中から大好きな一つを見つけ出せない曇った瞳にも、美容師さんと顔見知りにすらなれない臆病な自分に、大層がっかりしてきた。髪を切るたび、行きつけの美容院の話を聞くたびに、私は独りぼっちを味わう。

 

大人になるってことは居場所ができるってことなのかもしれない。

 

人生における僕らの一つ大きな目標は、家族を持って、家を持って、帰るべき場所を持つことにあるのだろうと私は思う。そこに至るまでには沢山の旅があって、けれど最後には骨を埋める場所…安らかに眠る場所を探し求めている。生きていく場所はいつだって変えられてどこへでも行けるけれど、眠る場所は一度決めたら変えられない。死に場所を探しているんだ。

 

そんな重大な生きがいの一端を、「行きつけ」ってやつは担ってくれる。そこへ行けば知っている人がいて、私のことも知っていて、この前の話の続きができる。行きつけの中で私がいつまでも続いていく。たとえ私が死んだって。

 

もしここで命を落としても構わない、と思える居場所を見つけた時にそこが私たちの行きつけになるのだろう。帰るべき場所があるから、傷つく勇気を出せる。帰るべき場所があるから、覚悟を持てる。

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