お茶の声が聴こえるか

物語の種子

「モノ需要よりコト需要」と言われるようになって久しい。

この言葉はモノが売れなくなって存亡の危機に瀕したビジネスマンたちが作った言葉だ。飽食の時代にて僕らはこの世の全てを手に入れた。空腹も、その身を守る衣服も、暖かな住処も、全てが金で買える時代。果てには指先一つで千里先の大切な人と話しができる魔法まで手に入れた。そしてついに人々はモノを必要としなくなったのだ。

 

けれども人々が満たされることはなかった。どれだけのモノや魔法に囲まれても彼らの欲望は尽きることを知らなかった。そのワケは簡単な話で、そもそも欲望というものが人と人との間に生まれる摩擦であったからだ。ある一人とひとりがまるで鍋と蓋のように、あるいは同じ貝の上と下であるように、それとも凸と凹であるかのようにピッタリ噛み合わない限り、欲望が尽きることはない。

あるいはルソーの云う「透明な社会」のように、全てを曝け出しあって心を通わせて二人が一人になったような角の立たない完璧な球体になったとすれば、摩擦は起きないであろうか。僕らの自我が消失すると共に欲望もまた消えて無くなるかもしれない。

 

 

けれど実際的に、そんなことは起きないし、僕は僕であるままに、君は君であるように生きていくし、そうしたいじゃんね。

そんな僕らの隙間を埋めるのは物語…「コト」だったってワケ。一人で弾くギターよりも、二人で踊ったあのフェスが忘れられない。高級で「ステータス」な洋服が作った溝をお揃いのトレーナーが埋めて、なんだか気取った銀細工の食器も、二人で食べる料理は楽しいね。

 

こうして優秀な営業マンたちは売れなくなった「車」を「ドライブ」として売り出すことで僕らに消費させようとし始めたんだ。人生を乗り切るための道具じゃなくて、人生そのものを売り始めた。彼らの仕組んだ「ライフスタイル」に嵌め込まれることで僕らは淋しくて哀しい夜も明かすことができる。ひとりぼっちじゃあまりに心許ない生活を、偉い人の作った村でなら暖かく過ごせそうじゃないか。

 

その構造はあまりにも宗教と酷似していた。

 

 

ところで僕はある一つの宗教に属することがとても苦手で、その対極でありそのものであるとも言える"哲学"につい身を窶したがってしまう。それは孤独な試みである。大きな群生に飲み込まれることを拒絶して、自分の脚と翼だけで朝日を目指すのだから。でも、だって、それが自由だということだろう。

結局、その終着は僕自身が宗教になるということ。僕自身が物語を作るということ。輸入してきた人生ではなく、この俺の道を歩くということだ。

 

そのためには沢山のモノを集めて、多数の記憶に囲まれて、大勢の人生を背負って生きる。

いくら"コト"を集めたところでモノにはならない。集めたモノたちがモノガタリを作ってコトになっていくんだよ。

 

#日記 #エッセイ #コラム