お茶の声が聴こえるか

だから今日、僕はゴミになります。

2018年12月も暮れを迎えようとしている。

年の瀬ということもあってか、ゴミを捨てに行くと街中に沢山のそれが溢れている。みんな大掃除をしているのだろう、偉いことだ。その内訳は洋服、食器、家具、家電…多岐にわたり、小さな山脈を形成していた。僕はその山に夢の墓場を見たのだった。

 

一言に「ゴミ」と言ってのけたが、元々それらは人々の生活を豊かにするため作られたものたちだった。そして、そのために手に入れたものだったはずだ。君も、僕も。

あの服を着れば、あの家具を手に入れれば、私の生活は今より一歩とは言わないまでも半歩くらい素敵になるハズだと信じてお金を支払った。生活どころの話ではない。私の人生は、ひいては私自身が素敵になるハズだと信じて疑わなかった。それは正に夢の形をしていた。そして、裏切られた。いや、裏切ってしまったのかもしれなかった。

そんな夢の、夢たちをあの馬車が連れていく。夢を手放す寂寞によって空いた穴を、生活という名の平穏が埋めた心であの馬車を見送る。さよなら、さよなら日曜日。こんにちは、新しくてハイカラな月曜日。

 

どうせなら僕もその馬車に乗せて欲しいと思った。確かにゴミを捨てて清潔になった生活は便利で快適だけれど、あの日描いた夢をもう一度見れるのだとしたら、名前も知らない誰かの夢を覗き見できるのだとしたら、僕は喜んであの馬車に乗ろう。キラキラしていれば何でもいいとばかりに夢を集めては、あとにそれがただの割れたガラスだと気付いて落胆した反省も忘れて、夢と希望は多いほどに幸せなんだってもう一度信じたい気分だった。だって、もうすぐ新しい時代が始まる。だからもう一度、夢を信じてみたい。

 

でも、そうもいかない程度には僕も夢を見てきてしまった。それを使いこなせずに見送ってきてしまった。だからもうなんでもかんでも集めるのはやめようと思う。モノに囲まれた素敵な自分じゃなくて、モノによって素敵になった自分を目指そうと思う。永遠に切れ味の持続するらしい包丁じゃなくて、少し変な形の可愛いナイフと砥石を買おうと思う。夢を集めて素敵になった自分じゃなくて、素敵を纏って夢になった自分になりたいなって、これからは思う。

 

だから今日、僕は