お茶の声が聴こえるか

かつて芸術は日常だった

秋葉原まで久しぶりにサイクリングしてみた。
というのも、あまりの運動不足に身体の線(特にお腹とほっぺた)が歪み始めたからだ。どうして惑星が体積を増すほどに他存在を引き寄せるように、人間も体積を増すほどに他者存在を惹き寄せてはくれないものかと考えたりもしたが、好き好んでブラックホールに近づく餌もないかと腑に落ちる。


ところで、どうして秋葉原に向かったかといえば僕がオタクだから、というワケでもなく、いやオタクはどうかはこの際どうでも良い、つまりカメラを手に入れるべくあの機械の街へ足を運ぶに至ったのだ。
カメラはいい。もってないけど、カメラはいいのだ。もってないけど。芸術を言葉として捉えるならば、日常からある時空間を切り抜いて非日常へと歪める作業を指すが、カメラの役割は正にそれである。日常はそこから切り離されてガラスの枠にはめられた時点で、非日常と化す。写真を撮るという行為はただそれだけで芸術的な活動なのだ。

ところが、僕はつい寄り道をしてしまう。サイクリングの醍醐味でもある、許される。引き寄せられたその先は、一軒のアンティークショップ。誰かが営んだ日常から切り離されて、たった今この瞬間のみ芸術として成立しているアンティークたち。つまりここはとあるミュージアムでもあった。非日常のテーマパークであった。
日常と非日常は互いに引かれ合う存在でもある。だからこそ自転車という生活に根ざした、日常そのものから僕はついミュージアム、つまりアンティークへと吸い寄せられてしまったことを告白しよう。
しかしながら、芸術というのは実に空虚でもある。僕らは生活の連続からなる日常そのものであって、非日常的なあれそれは実態を伴わない虚像だ。そんな虚無に引かれてしまうのは、真空へと引きずりこまれる大気の様相をも見せている。

そう考えれば、日常の積み重ねによって体積を増した僕の体はズバリ現実そのものだった。そして、今書いているこれは現実逃避の空虚であった。仕方のないことだ、日常は非日常へと、空虚は現実へと引き寄せられてしまうのだから。


痩せます…。