お茶の声が聴こえるか

言葉と人格とたまねぎ

扱う言葉と人格とでは、どこまでが一体のものなのだろう。

 

同じ言葉を使ったところで同じ人物にはなれないし、ところが同じ人物が異なった言葉を使うようになると少し淋しい気持ちになる。なんだか、僕の知っていた彼女とは違うみたいで。

 

言葉と人格との関係性はたまねぎと皮の関係みたいなものなのかもしれない。目で見える姿は、かつての彼で、一皮向ければまた似たような、でも違った姿を見せてくれて。そんなことを、考えた。けれど、世の中で必要とされてるのは中身よりもむしろ皮の方らしくて、どうやらたまねぎと人間とでは勝手が違うらしい。

 

そこで、もうひと頑張り考えた。人格と言葉との関係性は、花と香りの関係に近いのかもしれない。

 

花は香りがなくとも可愛くて綺麗だけれど、いつもと違う香りがすれば心配になるし、そのままずっと香りが変わってしまったなら僕は遣る瀬無いほどつまらない気持ちになると思う。香りが同じだとしても、よく近づいてみれば全然違うことに気がついて、きっと見えない影を追うことになる。

 

ここのところ、素直な文書が書けるようになったような感想がある。

 

特にこのブログを書き始めた頃の僕は、とかく認めて欲しい感情を強く持っていた。感受性の豊かな、壊れやすい、それでいてどこか綺麗な人間だと思われ、認めて欲しかったのだと今になって思う。何者かになりたかったのだと思う。だから好きな作家の言い回しを真似したり、こうだったら良かったのになあ…なんて考えた人格を演じるかのように文章をしたためていた。"いいモン"でいようとして、悪モンの自分に蓋をしていた。

 

結局、そのあべこべな姿がみっともなくて、自分以外の何物かを演じようとすること自体が傲慢だったのだと思う。自分は自分にしかなれないし、僕にとっての星の王子様が変わってしまったB612を見たらどれほど悲しい気持ちになって涙を流すだろう。

 

ガラスケースで守ってあげていた僕の薔薇は、元気にしているかな?

 

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