お茶の声が聴こえるか

綺麗な花には棘がある

そんな慣用句がある。

愛想のない美女を指して使われることの多い言葉だと思う。バラの棘が、彼女を食べてしまわぬやう痛くて鋭いように、厳しくも辛い態度をとるのだとどこかの誰かは言っていた。

 

ところで、バラの棘が実際に彼女を草食動物から守ってくれるのか調べてみたことはあるだろうか。つまり、守ってくれやしないのだ。彼らは容赦なく彼女を啄ばみ、貪る。凡そ私たちの知る限り弱者に見えるハムスターでさえ、薔薇を食べてしまう。なんだ、あの棘に身を守る力なんてないじゃないか。

でも、ではなぜ、棘なんて付いているのだろう。あの棘は時として彼女の身体でさえ傷つけることがあるという。まるで意味のないどころか、その強さは我が身をも蝕む諸刃じゃないか。

 

どうやら、ツル植物の薔薇がもつあの棘は、他所の茎に引っ掛けてより高いところへ、より日の当たる場所へ顔を出すためのフックであるらしかった。

 

そんなようなことを、顔はいいのにライバルの足を引っ張り有名な人に突っかかり、今夜もマウンティングばかりする美女たちを見て考える。さて、昨今の薔薇はトゲを切り落としても上手くやれば生育にはなんら問題がないらしいよ。

かつて芸術は日常だった

秋葉原まで久しぶりにサイクリングしてみた。
というのも、あまりの運動不足に身体の線(特にお腹とほっぺた)が歪み始めたからだ。どうして惑星が体積を増すほどに他存在を引き寄せるように、人間も体積を増すほどに他者存在を惹き寄せてはくれないものかと考えたりもしたが、好き好んでブラックホールに近づく餌もないかと腑に落ちる。


ところで、どうして秋葉原に向かったかといえば僕がオタクだから、というワケでもなく、いやオタクはどうかはこの際どうでも良い、つまりカメラを手に入れるべくあの機械の街へ足を運ぶに至ったのだ。
カメラはいい。もってないけど、カメラはいいのだ。もってないけど。芸術を言葉として捉えるならば、日常からある時空間を切り抜いて非日常へと歪める作業を指すが、カメラの役割は正にそれである。日常はそこから切り離されてガラスの枠にはめられた時点で、非日常と化す。写真を撮るという行為はただそれだけで芸術的な活動なのだ。

ところが、僕はつい寄り道をしてしまう。サイクリングの醍醐味でもある、許される。引き寄せられたその先は、一軒のアンティークショップ。誰かが営んだ日常から切り離されて、たった今この瞬間のみ芸術として成立しているアンティークたち。つまりここはとあるミュージアムでもあった。非日常のテーマパークであった。
日常と非日常は互いに引かれ合う存在でもある。だからこそ自転車という生活に根ざした、日常そのものから僕はついミュージアム、つまりアンティークへと吸い寄せられてしまったことを告白しよう。
しかしながら、芸術というのは実に空虚でもある。僕らは生活の連続からなる日常そのものであって、非日常的なあれそれは実態を伴わない虚像だ。そんな虚無に引かれてしまうのは、真空へと引きずりこまれる大気の様相をも見せている。

そう考えれば、日常の積み重ねによって体積を増した僕の体はズバリ現実そのものだった。そして、今書いているこれは現実逃避の空虚であった。仕方のないことだ、日常は非日常へと、空虚は現実へと引き寄せられてしまうのだから。


痩せます…。

だから今日、僕はゴミになります。

2018年12月も暮れを迎えようとしている。

年の瀬ということもあってか、ゴミを捨てに行くと街中に沢山のそれが溢れている。みんな大掃除をしているのだろう、偉いことだ。その内訳は洋服、食器、家具、家電…多岐にわたり、小さな山脈を形成していた。僕はその山に夢の墓場を見たのだった。

 

一言に「ゴミ」と言ってのけたが、元々それらは人々の生活を豊かにするため作られたものたちだった。そして、そのために手に入れたものだったはずだ。君も、僕も。

あの服を着れば、あの家具を手に入れれば、私の生活は今より一歩とは言わないまでも半歩くらい素敵になるハズだと信じてお金を支払った。生活どころの話ではない。私の人生は、ひいては私自身が素敵になるハズだと信じて疑わなかった。それは正に夢の形をしていた。そして、裏切られた。いや、裏切ってしまったのかもしれなかった。

そんな夢の、夢たちをあの馬車が連れていく。夢を手放す寂寞によって空いた穴を、生活という名の平穏が埋めた心であの馬車を見送る。さよなら、さよなら日曜日。こんにちは、新しくてハイカラな月曜日。

 

どうせなら僕もその馬車に乗せて欲しいと思った。確かにゴミを捨てて清潔になった生活は便利で快適だけれど、あの日描いた夢をもう一度見れるのだとしたら、名前も知らない誰かの夢を覗き見できるのだとしたら、僕は喜んであの馬車に乗ろう。キラキラしていれば何でもいいとばかりに夢を集めては、あとにそれがただの割れたガラスだと気付いて落胆した反省も忘れて、夢と希望は多いほどに幸せなんだってもう一度信じたい気分だった。だって、もうすぐ新しい時代が始まる。だからもう一度、夢を信じてみたい。

 

でも、そうもいかない程度には僕も夢を見てきてしまった。それを使いこなせずに見送ってきてしまった。だからもうなんでもかんでも集めるのはやめようと思う。モノに囲まれた素敵な自分じゃなくて、モノによって素敵になった自分を目指そうと思う。永遠に切れ味の持続するらしい包丁じゃなくて、少し変な形の可愛いナイフと砥石を買おうと思う。夢を集めて素敵になった自分じゃなくて、素敵を纏って夢になった自分になりたいなって、これからは思う。

 

だから今日、僕は

物語の種子

「モノ需要よりコト需要」と言われるようになって久しい。

この言葉はモノが売れなくなって存亡の危機に瀕したビジネスマンたちが作った言葉だ。飽食の時代にて僕らはこの世の全てを手に入れた。空腹も、その身を守る衣服も、暖かな住処も、全てが金で買える時代。果てには指先一つで千里先の大切な人と話しができる魔法まで手に入れた。そしてついに人々はモノを必要としなくなったのだ。

 

けれども人々が満たされることはなかった。どれだけのモノや魔法に囲まれても彼らの欲望は尽きることを知らなかった。そのワケは簡単な話で、そもそも欲望というものが人と人との間に生まれる摩擦であったからだ。ある一人とひとりがまるで鍋と蓋のように、あるいは同じ貝の上と下であるように、それとも凸と凹であるかのようにピッタリ噛み合わない限り、欲望が尽きることはない。

あるいはルソーの云う「透明な社会」のように、全てを曝け出しあって心を通わせて二人が一人になったような角の立たない完璧な球体になったとすれば、摩擦は起きないであろうか。僕らの自我が消失すると共に欲望もまた消えて無くなるかもしれない。

 

 

けれど実際的に、そんなことは起きないし、僕は僕であるままに、君は君であるように生きていくし、そうしたいじゃんね。

そんな僕らの隙間を埋めるのは物語…「コト」だったってワケ。一人で弾くギターよりも、二人で踊ったあのフェスが忘れられない。高級で「ステータス」な洋服が作った溝をお揃いのトレーナーが埋めて、なんだか気取った銀細工の食器も、二人で食べる料理は楽しいね。

 

こうして優秀な営業マンたちは売れなくなった「車」を「ドライブ」として売り出すことで僕らに消費させようとし始めたんだ。人生を乗り切るための道具じゃなくて、人生そのものを売り始めた。彼らの仕組んだ「ライフスタイル」に嵌め込まれることで僕らは淋しくて哀しい夜も明かすことができる。ひとりぼっちじゃあまりに心許ない生活を、偉い人の作った村でなら暖かく過ごせそうじゃないか。

 

その構造はあまりにも宗教と酷似していた。

 

 

ところで僕はある一つの宗教に属することがとても苦手で、その対極でありそのものであるとも言える"哲学"につい身を窶したがってしまう。それは孤独な試みである。大きな群生に飲み込まれることを拒絶して、自分の脚と翼だけで朝日を目指すのだから。でも、だって、それが自由だということだろう。

結局、その終着は僕自身が宗教になるということ。僕自身が物語を作るということ。輸入してきた人生ではなく、この俺の道を歩くということだ。

 

そのためには沢山のモノを集めて、多数の記憶に囲まれて、大勢の人生を背負って生きる。

いくら"コト"を集めたところでモノにはならない。集めたモノたちがモノガタリを作ってコトになっていくんだよ。

 

#日記 #エッセイ #コラム

鉱石(あるいは火山)

黒人を見た。

ザラザラとした、光の全てを吸い込みそうな暗い肌、激しくも艶やかに唸る長く伸びた黒髪、それから、決して見透かすことのできない黄色味がかった瞳。

琥珀のような瞳。

 

まるで鉱石のようだった。

 

とても美しい彼らを僕は、芸術品か工芸品、それとも物珍しい鉱石や宝石を見るかのような目で見ていた。僕は、そういう目で彼らを見ています。

 

あるいは、火山のようだった。

 

 

ところで、"黒人"は差別表現であると言われることもある。しかし僕はアレらを差別した白人の気持ちが少しだけ分かるのだ。だって、そうだろう。あんなにも美しくて、物々しくて、自分の生命とはまるで違うものをみて、どうして仲間であると思えただろうか。

 

それに、キリスト教というのは物を使役する人種だから。白人が彼らを使役しようとしたのは実に自然な流れであったことだろう。

 

 

僕は彼らを使役しようと思えない。いや、そんな大それたことを考えるのはあまりに野蛮なことだ。僕は彼らに神を見ている。箒に神が宿るように、宝石に天使が微笑むように、黒人に僕は聖を感じている。

 

あまりに違う彼らと僕。

一つになることはかなわないな、と本能的に、そして文化的にも感じるけれど、ひとつとひとつでふたつのままに隣に飾られることはやぶさかでない気分になる。黒い君と、白いアイツ。ひっくり返しても黒は黒だし白は白、そして僕らは黄色いけれど、だからこそいいんじゃないかなって思ったりもする。

外野の夜明け

喫煙室ではなにやらエモーショナルな話をしている。

 

「女性はいくつになっても美というものを追究しますよね。もちろん、内から醸し出されるものもあると思います。

 

どんなにいい服でも、品のない女性が着るとダメなんだよね

 

それが、どう。気品のある婦人が着れば、かっこいいんだ。かっこいいんだよな。今はファッションのメインが高校生になってしまった。だから、退屈だよ。つまらない。原宿なんて歩いてごらん、ああ 君はユニクロだね、って」

 

 

それは古い人間たちの昔話に過ぎなかったかもしれない、けれどそこにこそ"粋"というものがあった。今の我々に彼らの意志は息衝いているだろうか。二人の粋なミドルは、現代科学が生み出したハイテクノロジーな消臭剤を3プッシュ、身体に纏わせて喫煙室を後にした。

 

僕はそれに続いた。

欲望の灯

煙草が美味しく感じるようになった。

 

 

始めた頃はただ燻臭いだけで何がいいのか分からなかった。ただ煙を身体にためて肺を真っ黒にする自傷的な行為に浸りたいだけだったのかと思う。僕が喫煙を始めたのは5/31、世界禁煙デーだった。遅めの反抗期である。

 

次に、煙臭さそのものが良いような気もしてきた。これはやはり自傷の延長線上にあるもので、アルコールを摂取した時の酩酊感に似ていた。心地よいワケではないのに、なんとなくふわふわ浮遊した感じがして、地に足ついた現実から離れ自分の部屋という小さな小宇宙でひとりぼっちになれた気がした。

 

 

そして、遂に燻臭さが消えた。

 

ただ純粋に、草それぞれの味がわかるようになった。ミルクのようにまったりした感じ、バニラのような甘み、生命の青臭さ、それに乾いた風の匂い。

 

鼻が麻痺したのだと思う。

舌が痺れているのだと思う。

喉が声もなく悲鳴をあげた。

 

それでも、いいかな、なんて。

 

 

煙草はよくない とか 性に溺れるのもよくない とか 食べ過ぎはだめ とか、人生には「だめ」なことが沢山あって、それらは生命を突き刺すとされていて。

 

でも、そういった刺繍の後が人間そのものじゃないか、とも思うのだ。

 

苦しくならない恋なんてきっと恋じゃなくて、食べすぎたくなるほど美味しいものを食べたくて、そしてだめだからこそそれらは美味しい。

 

 

背徳の為に生きているんだよ。

 

「生きること」の終着駅はいつだって"死"のみが待ち受けている。なんのために生まれたか、なんて死ぬために生まれてきている。あとはせいぜい、子供を作っておしまい。

 

それでいいのか

いいワケないだろう。

 

人生の道途に懶げとして横たわる"死"への叛逆は、反抗は、犯行しかない。「だめ」とされること以外で傷を残すことなんてできやしない。

 

例えその行為が死神との舞踏だったとして、いいじゃない。仲良くしようよ。

 

だからお願い

欲望をとめないで。

 

絶やさないで、その赤を。