お茶の声が聴こえるか

新年明けられました

あけましておめでとうございます。

風邪をこじらせたり、壊れた心身を慰めたり、頭を打って救急搬送されたり、散々な2019年でしたが本厄だったと後から知って納得。災厄に見舞われて初めて、無事に年を越せたことへの感謝と祝福を覚えますね。

 

2019年の大晦日には、彼女に教わり"晦日参り"に初参戦。そこで本厄だったことを知り、不思議な輪っかを8の字に潜って大祓い。沢山の人が8の字に回る様はまるで∞の字を書くようで、とてもパワーがありそうだった。

 

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とはいえ、厄や穢れ…気枯れは落とせても、積もり積もった汚れや恨みのようなものは落とせやしなくて、人の業にはいつだって前兆があって。身に降り注ぐ災厄のいくつもが人災であろうことも間違いなくて。せめてそれらのツケは2019年度のうちに片をつけられればな、と思うばかり。

 

2020年もまだまだ後厄、病み上がりのような運気に気をつけながら上向きに努めていきたいですね。

 

今年もよろしくお願いします。

 

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言葉と人格とたまねぎ

扱う言葉と人格とでは、どこまでが一体のものなのだろう。

 

同じ言葉を使ったところで同じ人物にはなれないし、ところが同じ人物が異なった言葉を使うようになると少し淋しい気持ちになる。なんだか、僕の知っていた彼女とは違うみたいで。

 

言葉と人格との関係性はたまねぎと皮の関係みたいなものなのかもしれない。目で見える姿は、かつての彼で、一皮向ければまた似たような、でも違った姿を見せてくれて。そんなことを、考えた。けれど、世の中で必要とされてるのは中身よりもむしろ皮の方らしくて、どうやらたまねぎと人間とでは勝手が違うらしい。

 

そこで、もうひと頑張り考えた。人格と言葉との関係性は、花と香りの関係に近いのかもしれない。

 

花は香りがなくとも可愛くて綺麗だけれど、いつもと違う香りがすれば心配になるし、そのままずっと香りが変わってしまったなら僕は遣る瀬無いほどつまらない気持ちになると思う。香りが同じだとしても、よく近づいてみれば全然違うことに気がついて、きっと見えない影を追うことになる。

 

ここのところ、素直な文書が書けるようになったような感想がある。

 

特にこのブログを書き始めた頃の僕は、とかく認めて欲しい感情を強く持っていた。感受性の豊かな、壊れやすい、それでいてどこか綺麗な人間だと思われ、認めて欲しかったのだと今になって思う。何者かになりたかったのだと思う。だから好きな作家の言い回しを真似したり、こうだったら良かったのになあ…なんて考えた人格を演じるかのように文章をしたためていた。"いいモン"でいようとして、悪モンの自分に蓋をしていた。

 

結局、そのあべこべな姿がみっともなくて、自分以外の何物かを演じようとすること自体が傲慢だったのだと思う。自分は自分にしかなれないし、僕にとっての星の王子様が変わってしまったB612を見たらどれほど悲しい気持ちになって涙を流すだろう。

 

ガラスケースで守ってあげていた僕の薔薇は、元気にしているかな?

 

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高円寺

僕はこの高円寺という街に対してとりたてた思い入れはない。ただ人が暮らし、人が訪れ、人の去る他愛のない街だ。

 

大学生の暮れ、当時の彼女にも振られてどいつもこいつもクソッタレだな!1番のクソッタレは…言うまでもなかったが、そんな折に始めた出会い系の女と待ち合わせしたのも高円寺のベッカーズ前だった。彼女との連絡は日に一回あるかないかの、スマートフォンの画面を覆い尽くすような長文でのやり取りで、さながら交換日記のような様相を見せていた。感受性を拗らせた我々は好奇心の赴くままに顔合わせをすることになる。

 

びっくりした。

 

びっっくりした。写真と全然ちげーじゃねーか!パネマジってこれのことか!顔の造形は可愛らしい東アジア然とした容姿をしていたが、なんやこの巨体は。どっちが縦でどっちが横なんだ。人間は顔じゃない、日々の暮らし方が全てだ。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ!

 

病気でどうしても丸くなってしまう人もいる。体質的にどうしても太りやすい人もいる。わかってる。どうでもいい。僕は面食いだった。

 

太っているというだけで生活習慣を疑ってしまう。4畳半の家の中は雑然とし、ニトリで4000円払って買ったであろう小さなちゃぶ台にカップヌードルと割り箸が立ち尽くして、その横では紫煙が立ち上る…そんな様子を想像した。お風呂場には洗髪剤が散乱し、およそ3年は洗われていないお手洗いを想像した。実際の暮らしはきっと、そんな酷いことはない。IKEAの家具に囲まれて雨の日の昼下がりにはロイヤルミルクを嗜みながら読書をするような生活な人だったに違いない。でも、どうでもいい。

 

初めて水タバコをやったのもこの街だった。その界隈では有名な8グラムというお店でチョコレート味のそれと、ジャスミンの香りがするものを二つ、吸ってみた。店内にはトルコランプや提灯がぶら下がり、暖色の柔らかな光と様々な煙が混じり合った線香のような香り、そしてどこからやってきたのかアイデンティティを拗らせていそうな若者が沢山いた。どいつもこいつも、ダメそうな顔つきをしていた。長く付き合いのある友人とナンパ目的でやってきて7時間ひたすらカタンというボードゲームで潰したこともあるこのお店で、少し仲良くなった女が初心な女の子に浮気・援助交際の手解きをする姿を見た。複数の男がいかにもバンギャっぽい淫らな女を口説いている姿も見た。

 

ガード下では電車の轟音と、焼ける匂い、そして群衆が屯しないよう市によってに設置されたポールをテーブルにして酒を煽る人々を見た。次から次へとやってくるフォーリナーを必死の呼び声で店へ吸い込む呼び子を見た。みんな楽しそうで、ダメそうだった。

 

ダメな日の帰り道、友達と社会見学がてら悪ノリでガールズバーへ初めて足を運んだのも、この街。高円寺。若さと身体の他に売り物のない女がいた。仕事に疲れて愚痴に暮れたい冴えないサラリーマンが入るであろうこの店で、ひたすらにしようもない愚痴を吐き出し続けるアマチュアの女がいた。男が金を吐き出すのは、精液か愚痴と共にであるということ、女にとってしようもない愚痴を吐くことは男にとっての吐精と変わらないであろうことを見た。

 

僕は、ダメそうになるとよくこの街にくる。ダメダメだった日々を慰めるように、ダメでもよかったんだと言い訳するようにこの街へ来る。沢山のダメな人に紛れて、自分のダメさを背景に溶かし込むようこの街へ来る。みんなダメで、みんな良いんだ、多分。そんなダメな場所があるからこそまた明日を頑張れる。

 

ダメで元々人間だ、いい時と悪い時とをしっかり分けて、できるだけいい時間を集めて積み立てられるようにやっていきたい。

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ジャパンレールウェイ

僕はよく、電車に乗る。

 

それはもちろん都会暮らしならではの車を持てないだとか、仕事で使うだとか、経済面での理由もあるのだけれど、とはいえ僕は子供の頃から電車が好きだった。まず最初に蒸気機関を好きになった。機関車トーマスとかいう、汽車にデカイ人面を貼り付けた人面車とも言えるような彼らの名前を僕は全て暗記していた。ゴードンはすっごい早くてすき、エドワードは親切で優しい、パーシーはなんか可愛い、そして特にジェームズは赤くてオシャレなのが好きだった。

 

…。

 

鉄道といえばJRだけれど、どうしてJRばかりこんなに普及しているのか不思議に思ったこともある。結局それはJRの前進が国鉄…国家ぐるみの大業だったからに違いないのだけれど、じゃあその他の私鉄と呼ばれる小さな鉄道は一体なんなんだろう。サーハンデルとかみたいなもん?

 

JRも私鉄も、同じくらい僕は利用する。とはいえ、やっぱりなんとなく私鉄を使うときはローカルな感じがするし、JRとは一線を画すところがあるんだろうなあと感じていた。

 

ところで、お恥ずかしいこと(?)に今日、初めて東西線に乗った。東西線東京メトロの一つで私鉄なのだけれど、当然その輪の中で完結している路線だと思っていたし、実際にそうである。けれど、この路線は高円寺や中野を通過するときにJRの路線と合流する。この経験は僕にとって思いもよらないことだった。DCとマーヴェルがコラボしたような、あるいはスクエアとエニックスが合併したあの時のような感覚だった。

 

当たり前なことなんだけど、強い二人が手を組むと、とっても強い。

 

前は俺がやる、後ろを頼んだ…そんな背中合わせの関係をJRと東西線に感じたっていう、ただそれだけの日記なんだけど、こんな最強タッグを見つけたらこちらの宛先まで応募してほしい。

変身願望

人は皆、なんらかの変身願望をもって消費を行う。

 

例えば、洋服を買うこと、化粧をすること、あるいは家を買うこと。

中でも、僕は髪を切ることに重きを置いてきた。美容院に行きさえすれば今までの鬱屈した取り柄のない液体のような自分を切り落として、洗練された個体の私が手に入るように思えた。

美容師との刹那的なコミュニケーションもよい。自分の知らない情報の共有、ここのところの近況報告をする時間は、さながらに同窓会のそれだ。

 

けれども、いつ頃からか「次の髪型」への欲望が枯渇した。なりたい髪型も、なりたくない髪型もない。どんな髪でも自分はうまくやっていけるし、姿が変わったくらいでなにも変わらないような気さえしてきた。その穴を埋めるようにして、あてもなく美容室の予約をしては彼を困らせ、ただ漫然と悩みのタネを切り落とすのであった。

 

思えば、変身というのは子供の特権である。古くから男の子は3日もあれば別の生き物へ変わるとも言われ、事実として我々がぼんやり過ごした一年間で身長も15センチは伸びる。私の身長が1年で15センチも伸びてしまったらそりゃあもう一大事だ、4年もあればギネス記録を塗り替えてしまう。ていうか、そんなSF並みの身長を誇ったロバートワドローって何者なんだ。そっちの方が気になる。

 

ウルトラマンも、戦隊ヒーローも、おジャ魔女も、プリキュアも、みんな変身する。今時は男の子も男の娘とかいうやつに変身する時代だ。もうこんな時代は終わりだ。

 

子供と変身の親和性が高いのは、目に見えて自身が変化することに由来する未来への可能性だろう。いわば魔法少女たちは、未来への可能性という信用を担保にしていかにも燃費の悪そうな変身を繰り返しているのではないか。妙齢の女性が変身できないのは、盛りの男がヒーローになれないのは、その見えざる資産を失ったからではないか。

 

閑話休題。変化の少なくなる、青年期以降の私が変身とうまくやっていけなくなるのも、無理のない話であったのだ。一晩過ごすごとに姿が変わり意見が変わるような成人男性はかえって信用を失うことだろう。先ほどの論理からいけば信用を失えばなおさらに変身はできない。変身デフレスパイラルがここに生まれた。

 

なら、私たちは何を担保に変身すればいいのだろう。この鬱屈とした気持ちも、代わり映えしない日々も、どうすればゲームボーイカラーからゲームボーイアドバンスに進化したような変化を得られるだろう。それじゃあ、あんまり変わんないか。プレステからプレステ2くらいの変身が欲しいんだよ俺は。ったく。

 

ところで、繰り返し変身について羨望の持論を開陳してきたが、必ずしも変身はよいものとも限らない。むしろ、その最も代表的な例としてはおどろおどろしい世界が横たわっていることを忘れるよしもない。そう、目が覚めたら人間から昆虫へと姿形が変わっていた、カフカの変身である。

 

ここにきてようやく、変身の定義が見えてきた。つまりこうだ。

"(良くも悪くも)期待を裏切って、異形へ変容する様子"

 

従って、先述した子供と変身の親和性というのは子供視点の話であり、親からすれば大きくなっていく我が子が変身したとは思わない。ただ成長しただけ、なのである。

 

どうやら、私たちは勘違いしていたのではないか。

私たちが変身願望だと錯覚していたそれは、実のところで成長願望の歪んだ姿だったのではないだろうか。成長に付随しがちな「(その人にとっての)好意的な変化」を強要される風潮への天邪鬼から無謀な転身を繰り返しているのではないか。

 

誰しもが、他人の望んだ自分だなんて空っぽの指輪ケースにはなりたくない。自分で考えて、自分で決めた、中身のある、それでいて誰かに愛される自分になってみたいと思う……のだと思う。

そしてそのことは、成長願望と矛盾しない。

 

僕は、僕も「成長」という言葉が嫌いだ。誰かの良しとする自分になんてなりたくない。いいところだけ啄まれて、利用されて、搾取されて、摘み取られるのは嫌だ。

 

けれど、親が子に願う成長とは本当にそのようなものだったか。

大きく育って、健やかで、もう一つの命として完成していくことを期待する営み、これは支払った代価に対して納得するのに必要な報酬だと思う。

 

そうだった。父さんも、かあさんも、そして僕も、ただ納得したかったんだ。対価を払って、自分で納得できる自分になりたかった。自分で納得できるあなたになって欲しかった。ただそれだけだった。ただそれだけのことを成長と呼んだ。

 

だったら、今とまるっきり生活を変えることも、姿を変えることも、思想を変えることも、ナンセンスだろう。ただこのままで、時々なにかを拾ったり、そのぶんなにかを手放したり、それを繰り返して少しでも「納得の自分」に近づいていくだけなんだな、って今は思う。

 

しばらくは髪を伸ばして、もたついたところは切り捨てて、もしかしたら刈り上げてゼロに戻して、そうやって自動車のクラッチを合わせるように進んでいくんだ。

愛への誘いを嗅ぎつけて

部屋に花を飾る習慣ができたのは、一人暮らしを始めてからだ。家族と暮らしていた頃は目に入る総雑なガラクタ達と耳に入る他愛のない会話、それから夕食の香りで満たされて花の付け入る隙が1mmもなかった。

 

花を生けていると、部屋にとある匂いが漂うこととなる。金木犀やラベンダーなんかは明確に特徴的な香りを出すけれど、それとは別に花類が共通で出すある一つの匂いがある。その匂いが僕はたまらなく苦手で、同時に求めて仕方ないものでもあった。

 

その匂いは僕が幼い頃には感ぜられないものだった。いや、正確には知覚できなかったというべきか。物心がついてから、具体的には童貞でなくなった日の暮れからそれを感知するようになった。

 

性行為をした部屋、一日履き倒した下着、そして花から感ぜられる、匂い。

愛へ誘う匂い。

 

僕はこれが得意じゃない。うん。得意じゃない場面が、多い。僕は僕の目の前で、他人が他人を口説く場面を見たくない。僕を挟んで行われる僕の知らない物語を聞きたくない。他所でやってくれ。それとも僕が消えようか。

 

ある異性を狙う人間から漂う匂い、愛の残り香、更衣室で乱雑にばら撒かれた、匂い。そのどれもが何者かへ差し出された左手だった。僕以外の、何者かへ。

 

それでも僕らは愛への誘いを嗅ぎつけて、右手を伸ばさずにはいられない。どうか、どうか私に送られたinvitationでありますようにと祈りを込めて右手を伸ばす。その姿はまるで許しを請う修行僧にもみえた。

冬と猫背

つい、つい猫背になってしまう季節だ。

 

地面に散りばめられた落ち葉の絨毯と宝石のような銀杏を見つめたりだとか、出会いと別れに肩を落としたりだとか。それから、そう、降りかかる冷気に当てられて、まるで猫のように身を丸めてみたりだとか。

冬の何が最も気にくわないって、寒いことでも、乾燥することでもなくって、寒くて強張らせた身体がとてつもなく疲弊すること。寒いのは嫌だけど、それで疲れちゃうのってもっと、損した気分。

 

ところで、霜の下にはもう、あのつくしたちが顔を出している。ニョキッと背筋を伸ばして、今か今かと春を待っている。いや、春の暖かで朗らかで穏やかな陽射しを待ち望んでいる。凍えた部屋から一刻も早く抜け出して、ホッと一息つきたくて仕方がないんだ。